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8月5日、STAP細胞捏造疑惑で騒動の渦中にあった笹井芳樹さんが自殺されました。これで、今度の事件に忌避感情が生まれ、小保方側や、理研側、早稲田側の思惑以上にうやむやの内に忘れられるかもしれません。結局、STAP細胞問題で何があきらかになり、何を変えられ、今後何を課題とすべきなのでしょうか?

小保方論文の剽窃疑惑や理研の内幕をtwitterで熱心に情報発信されていたのが思想家の東浩紀さんです。しかし、東さんの近著『弱いつながり』にも、小保方問題に通じる根本的なマズい問題をはらんでいます。それは、変わらない日本、変えられない日本のもっとも根本的な宿痾のひとつです。


 
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今年に入って何度か、2013年という年は『ゼロ年代のインターネットの夢の挫折の年』だったとブログに書いてきた。私のような市井の者がいうまでもなく、最近では、ゼロ年代にインターネットシーンを強力に引っ張って来た『カリスマ』の面々が皆、異口同音に語ることでもある。それぞれに変調に戸惑い、現状を嘆き、暗中模索する様子が明らかに見て取れる。

最近、発刊された、思想家の東浩紀氏の『弱いつながり』も、そのような『独白もの』だし、『世界をどう変えるか』というような大掛かりな問を突き詰める前に、まず現代人はどのように生きていくのが賢明なのかという点について、非常に率直に語られている。

社会学者のマーク・グラノヴェッターは、1970年代の初め頃に、個人が発展していくための情報(求職等)については、親友や家族のような緊密な社会的つながり(強いつながり)によってもたらされる情報はほとんど役に立たず、単なる知り合い(弱いつながり)から得られる情報のほうがはるかに有効であるとの説を展開して、高い評価を得た。

この説は、ミクシィやフェイスブックのようなSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が出てきて再び強い脚光を浴びることになる。SNSは、狭くなりがちな日常の交友関係を大きく広げ、無限といってもいいほど、知り合い(弱いつながり)を増やすことができるツールであり、これからの時代の勝ち組は、この『弱いつながり』を広げて、有用な情報を収集することができる者のことをいう、という言説が一時期ビジネスシーンを席巻した。

ところが・・

グーグルにしても、フェイスブックにしても、昨今はいわゆる『パーソナライズ化』が進んでいて(進み過ぎていて)、各人の趣味嗜好に沿った(とサービス側が判断した)情報ばかりがこれでもかと言わんばかりに届く。……これがユーザーの利便性を上げ(たとえユーザーが気持ち悪いと思ったとしても)、サービス側にマネタイズの機会をもたらすため、グーグルやフェイスブックに限らず、今日のネットサービスは大抵、程度の違いこそあれこの『パーソナライズ化』に取り組んでいる。そして、技術進化が日進月歩の現代では、実際には、どのサービスもかなり高いレベルで『パーソナライズ化』を実現している。

こういう現状を前提にして、東氏は述べる。ネットは人が所属するコミュニティの中の人間関係をより深め、固定し、そこから逃げ出せなくするメディアだと。ネット依存度が高くなればなるほど、自分の似姿ばかりに囲まれてしまい、その結果『弱いつながり』をつかむことができなくなってしまう。そして、自由に検索しているつもりでも、じつはすべてグーグル等が取捨選択した枠組みの中に閉じ込められ、他者の規定した世界でしかものを考えられなくなる。

東氏の回答はシンプルだ。『場所を変えよ』と。

そして、その一番有効な手段として、東氏は旅を推賞する。但し、全てをなげうった放浪の旅を勧めているのではなく、付かず離れずのお気楽な『観光』くらいの距離感が一番いいという。そして、そのお気楽な距離の取り方は、普段の生活でもそうで、会社、趣味の仲間、ネットの仲間と、コミュニティを広げていっても、日本人は往々にしてそれぞれで濃密な関係に浸り、ガチガチの『村人』になってしまう。だから、もっと意図的に『切断』することも必要(=『強いつながり』を『弱いつながり』に置き換えていくこと)、というのが、今回の東氏の一番大事なメッセージの一つといってよさそうだ。

via 東浩紀氏の新著『弱いつながり』が誘う『自分の似姿の世界』の外側 – 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る.

STAP細胞問題については以前若干ですがふれています。(「STAP細胞騒動とマレーシア航空機遭難事件にみられる腐敗と混沌の情勢」) それは、東日本大震災でもあきらかになった日本型組織と遅滞した近代性の問題であり(「震災の避けがたい忘却に遺す幾つかの思考)、付けくわれれば、文明の基礎にある個の価値判断という知性の基本的な問題です。小保方さんの研究が全く見知らぬものであっても、普段の言動や振舞い、顔つき、文章などから信用が置けるか否かはおよそのあてが付けられます。その正誤はともあれ、小保方さん(と理研やマスメディア)に騙されたというひとはたんに物事の真贋を見抜けられなかったにすぎません。動物的な欲求であれ、集団同調であれ、共感や思いこみであれ、人間の内にある自然さを統制する人為的な意志の力なくしては、真贋の見極め、すなわち、批評はできません。

思想家の東浩紀さんは、近著『弱いつながり』の冒頭で「人間は環境の産物だ」と主張しています。人間は、以前書いたとおり(「群ロボット工学、アルゴリズム・ゾンビの大群が危険な場所で活躍しはじめる時代」)、現代人や近代人、文明人であるよりも前に、霊長類であり、哺乳類であり、社会性動物ですから、母子関係や血縁関係、地域関係、組織関係としての集団的な「環境」から無縁でいることはできません。また、社会的であるよりも前にヒトは、恒常性維持のために、体内・体外構造を絶えず調節し構築し続ける生命である以上、流動性をより高めるように自律的にデザインを変え続ける物理的現実としての「環境」からも原理的に逃れられません。これは、ヒトが常に生命維持の危機に晒されうると同時に、探索の喜びと、恐怖、憤怒、肉欲といった原始的な情動とも切り離されえないことを意味します。

「人間は環境に抵抗することはできない。環境を改変することもできない。だとすれば環境を変える=移動するしかない」とする東さんの基本的な発想にはある程度の根拠があります。とりわけ、発達心理学者のロバート・キーガンSocialized Mind と名付けた心的発達の第1段階にとどまるひとたちにおいては、周囲からの鏡像的な期待に応え、役割を担い、逸脱せず、帰属意識をもって、集団の権威や価値秩序に自然な順応を果たすことだけがすべてであり、それゆえ、「環境を意図的に変えること」は無理をしない範囲内で直接的な有効性があるでしょう。(「環境順応型知性、周囲からの「期待」に圧し潰れる韓国の自殺者たち」)  が、それだけです。人間の発達には、第2段階の自己主導型知性も、第3段階の自己変容型知性も、そして、私見では知性の機能じたいを否定する別の心的原理さえあるのです。

キーガンらのメタ分析によれば、(アメリカ国内の大卒中流層の専門職の割合が多いとする)被験者の6割近くが「環境順応型知性」に留まっています。この数字を、多いとするか少ないかとするかは難しいですが、キーガンが、「今日の世界では、それまで環境型知性で(言い換えれば「よき兵隊」であることで)十分だった働き手たちに自己主導型知性への移行が、自己主導型知性で(「自信に満ちたキャプテン」であることで)十分だったリーダーたちに自己変容型知性への移行が求められるようになっている」と指摘するように、また、わたしが以前書いたとおり(「サイバー非社交性、情報技術が人間にもたらす3つの問題」)、現代人の生存にもとめられる知性やスキル、学習意欲は急速に上昇しています。つまり、低度の知性にあわせた思想書など、知的麻酔剤としての娯楽的な価値をのぞけばほとんど有効性を持ちえない過酷な現実が出現しているのです。


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有名高校に身を置くと、どの予備校に行けばいいか、どの参考書をつかえばいいか、迷う必要がない。まわりがやっていることをやればいいだけです。これだけで相当に負荷は軽くなります。「どのように勉強したらよいのか」がわかれば、あとはルーチンをこなせばいい。

同じことは、受験以外にも言えます。批評家としてさまざまなかたにお会いしました。お金持ちもいれば世界的なクリエイターもいました。つねに思うのは、人間は環境が作るということ。お金持ちと付き合っていれば、自然とどうやったら金がはいるのかがわかり、自分もお金持ちになる。クリエイターと付き合っていれば、自然とどうやったものを作れるかがわかり、自分もクリエイターになる。人間とは基本的にはそういう生物です。例外は「天才」と呼ばれますが、多くのひとは天才ではありません。

ぼくたちも環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能なことでしかない。あなたは、あなたの環境から予想されるパラメータの集合でしかない。

そして、多くのひとは、「自分が求めること」と「環境から自分が求められると予測すること」が一致するときこそ、もっともストレスなく、平和に生きることができます。

via 東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』

上記引用の東さんの発想も、 以前書いたとおり(「創造性の秘密、スーパーミラーニューロンと急激な気候変動」)、社会性動物としてのヒトの根本に身体的共感にもとづく無自覚な模倣がある以上、一定度の根拠があります。まわりがやっていることを素朴に真似していれば、環境次第では、研究者にも、思想家にも、芸術家にも、社会がそう呼ぶものになら何にでもなれます。同様の理由で、小保方晴子さんのような内実を欠いたひとでも理研のポストを自然と得られましたし、同様の過程で、旧日本軍の集団自殺やバブル時の集団熱狂のような妄信的行動がひとびとのあいだで自然と起こります。集団同調と模倣で知的「負荷は軽く」できますが、これだけでは価値判断により物事の質を見極めることも、実証的な懐疑で具体的でかつ合理的なアプローチを加えることも原理的にできません。あくまで、社会という「フリ」の世界に限られた話です。

文明人は、少なくとも残りの2、3割前後のひとたちは周囲や環境に規定されるだけではありません。以前書いたとおり(「自己主導型知性、赤ちゃんと成熟した人間の知性はなにが違うのか?」)、「神」や「法」や「師」といった超越的な第3項に屈従し、俯瞰的な視点を獲得し、おのれに規律と自己管理を求め、身体的模倣とは原理的にことなるかたちで自律的な自我の形成を経ます。古代文明の成立以後、一部の成熟した文化圏における権力や文化の重要な担い手となったのはこうした知性(以上の)ひとたちです。しかし、19世紀のキリスト教圏における「神」の失墜とヴィクトリア朝の反動、そして、20世紀半ばの西側諸国を中心に展開された近代特有の抑圧的な価値秩序に対する命懸けの闘争を経て、知性の構成原理の働きと物事の価値や秩序などはナイーヴに無視されるようになりました。その結果、以前書いた環境の問題も含め(「左翼と反ヘイト、「未来の衝撃」が常態となった仮想化社会の人間と全体主義」)、現実に出現したのはセルフコントロールの文明性の意志と知的原理を欠いた怠惰と野蛮人、ナルシシストの大群です。

意志力(ウィル・パワー)とは、社会心理学者のロイ・バウマイスターがさまざまな実験によって存在を確証したセルフ・コントロールのエネルギー概念です。彼によれば、意志力とは、思考、感情、衝動、パフォーマンスの主体的なコントロールを可能にするものであり、ガソリンのように絶えず量に限りがあり、グルコースによって補給され、普段の規律によって筋肉のように鍛えられるものです。ポストモダンにおける仮想化社会の文化的闘争は、西欧近代社会をかたち作ってきた単純で抑圧的、政治的な価値秩序に懸命な攻撃をしかけ、ひとびとの眼と常識をより多様で繊細な現実の深みにひらかせました。しかし、同時にそれは、愛と平和、動物や自然、自己陶酔などのロマンチックでより単純な称揚とともにおこなわれた知性の苛烈な2極化だったのです。(「UNIQLOの大転換と日本の有名大卒マイルドヤンキー群」) 




私たちの生きる現代は、バウマイスターも指摘するとおり、レディー・ガガがファンに自分を愛することを訴えるような社会が今もなお続いています。むしろ、2極化構造は両面共に過剰化し、真贋の見極めができない批評家が解釈の目新しさでもて囃され、人格的成熟を拒否したおとなたちが若者の承認欲求や自尊心の欠乏を熱く論じ、人間を動物的な層でしかとらえられない浅薄な思想家がいまだに論陣を張り、下品さや粗悪さに淫した拙劣なアートをやたらともちあげる知識人が日本文化を担う(あるいは、担わされる)奇妙奇天烈さがいまの日本社会です。人文系の大学人は、アメリカの現代美術や映画、音楽、文学などの芸術的な高みも知らずに新自由主義と情報化社会を批判しているのです。先進国と新興先進国においてはありえないことですが、理工系技術者がその価値を世間に顧みられることすらありません。現代日本のこうした文化状況下で、ヤンキーの野蛮さが左翼運動の原動力となり、意志力を著しく欠いた奇妙に賢い世代が社会にあらわれているのです。

東浩紀さんのネット社会に対する問題意識は、わたしも以前書いたとおり一応理解できますが(「ウェブの終焉、私的なものへと変更を迫られた巨人たちのアルゴリズム」)、そもそもをいえば、経済学者の野口悠紀夫さんも近著で指摘しているように、1980年代以降の先進国の社会全体で生じた仮想化の大変動は日本においては今もなお奇妙なかたちでしか起こっていません。世界は変わっても、日本は変わらなかったのです。(「終わりなき日本の製造業神話、大手ハイテク企業は何故レタスを作りはじめたのか?」) そして、人間の自然さや知性の単純さに依拠した思想家を、真贋の問題として本物だと、優れていると、批評的にはいえません。東浩紀さんの『弱いつながり』は、わたしの教養ではあまりに浅薄過ぎて読み進められない内実を欠いた生易しいだけの本なのです。

日本は何故変わらなかったのか。正確には、何故変えられないことが続いたのかはきわめて深刻な問いです。結論だけをいえば、呪術的な原始性ないし自然さを1千年以上も構造的に残存させられ、そして、今にいたってもなおそれを文化全体として克服できていないことに拠ります。この問題を対象化し、個人としても組織としても克服することなくしては、いかなる優れた思想家も、芸術家も、哲学者も、科学者も、政治家も、技術者も、企業家も、本質的かつ社会的には日本に多くは成立しえないでしょう。「天才」は、自身の内なる自然さを克服し学習し続けることによって練熟していきますが、社会や集団からの経済的かつ人脈的支援のゆたかさがそれを可能にするのです。いずれの場合の努力も、ロマンチックに想像されているよりかは難しくありません。


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Chika Hitujiya

I'm Futurist, producing "Whole Earth Museum" and co-producing art project Run! Miumushi-Kun & Garapadish. This common purpose is really simple. Making you enjoy and preserving the enough requisite knowledge & things for human to survive the crisis of period.
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