情報化時代の4つの負の自画像、日本のひきこもり問題と韓国の醜悪なマスメディア


BigLebouski

不登校や引きこもり状態が終わるというのは、どういうことなのか。

丸山康彦さんは、高校に入ってから不登校になり、7年かけて学校を卒業。大学を出て高校講師になるものの、退任後に今度は引きこもり状態になり、“社会復帰”に7年を要した。

そんな体験から、2001年に元当事者の独自の理念に基づいた相談機関「ヒューマン・スタジオ」を設立。現在は、学校や社会への「復帰支援」ではなく、「楽に生きることへの支援」を行うための団体「湘南ユースファクトリー」代表理事を兼任している。

「生きる道は、1人に1本ずつ用意されている」と考える丸山さんは、外部から見ると、不登校や引きこもりという状態像に見える人たちについても「外に連れ出す」対象ではなく、<人生の歩みが自分で動き出す力へとつながる人たち>だと見ている。

同書の<家庭訪問して連れ出すというのは、外からトンネルの途中に穴を開けて、外の世界に引っ張り出すようなもの>だという表現が、的を射ていて面白い。そして、自分自身の「トンネル踏破(出口まで歩き通した)体験」を重ね合わせたうえで、多くの本人たちが望んでいる支援をこう推測する。

<トンネルを歩いている自分を応援し、踏破するエネルギーを補給してくれる、そんな支援なのではないでしょうか>

丸山さんは、不登校や引きこもりという状態像について、<本人の奥深くから湧き上がってくるエネルギーに突き動かされて起こる行動>であり、<無意識からの指令>と呼ぶ。

筆者の印象でも、引きこもる境地へと至る当事者たちの多くは、感受性が人一倍強いがために、「これ以上、もう傷つけられたくない」という防衛本能から、社会的に撤退せざるを得なくなる傾向がある。

丸山さんは、そうした不登校や引きこもりへと導いた違和感や不安感について、<無意識による「今の生き方はいずれ行き詰るぞ」という“予知能力”の表れであり、<その前にいったん退却して、自分を創り直してから再出発せよという“指令”である>と解釈してみせるのだ。

しかも、「学校に行けなくなった」「社会に出られなくなった」という体験そのものが新たな傷や疲労を生み、きっかけになった出来事とともに<二重の傷や疲労を招く現象>と考察する。

<習慣でできていた通学や社会参加が「そうしなければならいないもの」という規範として意識されるようになり、プレッシャーを感じ、実行するのに必死になります。そして、本人は心のゆとりを失い、通学や社会参加に対して意識過剰になり、かえって実行が困難になっていくのです>

via 不登校・引きこもりを終わらせるものは何か経験者が自ら著書で語る「対応・支援」の道しるべ|「引きこもり」するオトナたち|ダイヤモンド・オンライン.

冒頭の画像は、[p2p type=”post_tag” value=”the-coen-brothers”]コーエン兄弟[/p2p]の『ビッグ・リボウスキ』からです。前回は、欧州で極右政党が若者世代の支持をあらたに集めはじめていることと「新下流」階級の無気力さについて書きましたが(「社会的知性の繊弱化、過激な新世代ネオナチの台頭に盛りあがる極右スウェーデン人党」)、1998年製作のこの映画は[p2p type=”post_tag” value=”america”]アメリカ[/p2p]の2極化構造をコメディタッチで対象化した良い作品でした。興味深いことに、[p2p type=”post_tag” value=”vincent-gallo”]ヴィンセント・ギャロ[/p2p]もこの作品と同じ年に『バッファロー’66』を製作し、[p2p type=”post_tag” value=”socialized-mind”]社会的知性[/p2p]が繊弱化したがゆえの今日的なコミュニケーション不全の奇妙さを良く描いています。すなわち、身体的共感という自然さの基盤を欠いているため、第3者的には独りよがりで妄想じみてみえるにもかかわらず、主観的にはきわめて真剣な思考回路の暗がりにはまりこんでいるのです。

上記引用の日本のひきこもりにもまた、実践をはなれた認識の問題としてはここまで夢想的な捉えかたに疑問は覚えますが、ギャロの描いたものとおなじ繊細な妄念の悪循環と孤独が個の知性の問題としてあることが観てとれます。いうまでもなく、1990年代の日本はオウム真理教がマスメディアを中心に流行し、地下鉄サリン事件として爆発、そして、新世紀エヴァンゲリオンの人気が隆盛をきわめた時代です。「新下流」階級のモデルとしてとりあげられたフィッシュタウンの教区学校を運営するある修道女が訴えたように「何かがおかしい」のです。そしてそれは、今日の[p2p type=”post_tag” value=”social-media”]ソーシャルメディア[/p2p]とメッセンジャーアプリの全盛時代にいたり、改善されるどころかますます広範にかつ深刻に希薄化しているといえます。

当事者視点からの社会復帰支援をおこなう「湘南ユースファクトリー」の丸山さんは、上記引用のあとの文章で「不登校と引きこもりの終わり方は、依存症者などにしばしば見られる「底つき」と呼ばれるプロセスに共通している」と述べています。

本人が動き出したきっかけに共通しているのは、<それまで自分の頭の中を占めていた思考の出発点――登校・就職をするかしないか――が、それよりもっと本質的な出発点に取って代わられた>からだと指摘する。

『バッファロー’66』のビリー・ブラウンや『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジには繊細極まる猥雑な想念が無秩序にあるだけで、それらを俯瞰する神の視点から構成しなおすことも、自身の思いこみを仮説として検証することもできず、主観的には苦しみながらも自身の外部としての未知なるものへの強烈な怯えに淫しています。丸山さんのいうとおり、彼らはまず、猥雑な枝葉をとりはらい「出発点」にたちかえり、その強烈な思いこみをずらすことが必要なのですが、物語的にはそこに外部としてのレイラや「セカイ」の終わりを要請せざるをえない必然性があります。日本の大衆文化としては、だらしなさに肯定的な価値をおいた『ASAYAN』のようなリアリティ番組と素人ブームでしょうが、しかしこれは、1960年代以降の西欧におけるカウンターカルチャーの興隆からいまの日本のマイルドヤンキー礼賛にまで続くふるくてあたらしい野蛮な「他者」へのロマンチックな欲望にほかなりません。

South Korea Ship Sinking

韓国では疲弊する日々が続く。16日朝、海上でフェリーが沈没したという速報が流れた。午前10時ごろの政府の会見では、済州島に向かう旅客船に計477人の乗客が乗っており、修学旅行の高校生325人もいて、その客船が沈没したという、聞いただけで気分が落ち込む速報だった。

それでも不幸中の幸いと思った。生徒が全員救助されそうだという報道が相次ぎ、午前11時ごろには生徒がすべて救出されたというニュースが生徒の親に伝わった。しかしすぐに事実でないと報じられた。行方不明者数は発表ごとに変わり、乗客の数さえも不明確になった。政府が発表する行方不明者の数はゴムひものように伸び縮みした。それに応じてメディアの訂正報道が続いた。

最も深刻な状況は4時30分ごろ。救助者数を368人としていたメディアが、集計ミスで誤った情報を伝えていたとして、実際の救助者数は半数以下の164人と訂正した。多くの生徒が救助されるのではないかという希望を、津波のような絶望で押し流したこのニュースの後、日は暮れ、空よりも気持ちが先に真っ暗になった。

一線の記者の一人は、こんなにめちゃくちゃな政府統計は初めてだと不満を吐露した。しかし、果たして政府の統計だけが問題だったのか。午前10時前後に始まった各メディアの速報レースもめちゃくちゃだった。

インターネットとテレビ・ラジオ、公共放送とケーブルテレビはどれも、惨事から得たすべての情報を先を争って「速報」の名で配信した。政府が発表すれば受け売りした。誰も疑う余地がなかった。知りたいという意志より、知ってもらおうという意志が勝った。

「タイタニック、ポセイドン…船舶事故を扱った映画は?」という、信じられない見出しを掲げた「イートゥデイ」の記事は午後2時40分ごろ掲載された。非難が殺到しようとどうでもいい。炎上させてトラフィックを稼ごうとする下心が見え見えの記事だった。

そして15分後、この媒体は「SKT、緊急救援物資を提供、一時的に携帯電話基地局を増設『よくできた~よくできた~』」という醜い見出しを掲げ、媒体の正体を赤裸々に知らしめた。現在、記事は削除された状態だ。

一方、複数のインターネットメディアは、客船の保険加入状況に注目する記事を送稿し始めた。朝鮮ドットコムは「セウォル号の保険は、生徒が東部火災保険、客船はメリッツ船舶保険に加入」との見出しで記事を配信した。このネット記事に刺激されたのか、公営放送MBCは、保険の条件に応じてどのような補償を受けられるのか、詳細な分析を放送した。

一方、同じ日にケーブルテレビの報道専門チャンネルJTBCの「ニュース9」は、アンカーのソン・ソッキ氏の長い謝罪でニュース番組を始めた。

「今日(16日)、昼の旅客船沈没事故の速報をお伝えするとき、私たちのアンカーが救助された女子生徒に質問した内容が、多くの視聴者からお叱りを受けました。どのような言い訳も必要ありません。私が学んできたことを、先輩として、責任者として後輩アンカーに十分に教えなかった私の責任が最も重大です。深くお詫び申し上げます」

ソン・ソッキの謝罪は、暗闇で覆われたメディアの終盤戦に差した一筋の光のように感じられた。公正な報道も重要だが、自分たちが何を間違ったのか認めて謝罪するのもメディアの役割だ。「ニュース9」は、ソン・ソッキは、少なくともその座を守った。

メディアが真実を追求しなければならないのは、常に自明のことだ。しかし、真実を追求するにはそれなりの覚悟と実力が必要だ。緻密な企画で真実に近づくことは、単純な正義心だけではできないからだ。今日の社会の人々は、スマートフォンで膨大な情報を共有し、世界のあちこちを見ている。その情報を取捨選択するのは自分の力量だが、読者は知っている。知ることができる。あるいは知らなければいけない。

via 旅客船沈没事故で恥をさらした醜悪な韓国メディア | 민용준.

お隣の韓国でたいへんに悼ましい沈没事故が起きています。今回の件でも無事に救助され(てしまっ)た檀園高校の教頭が自責の念から首を吊っていますが、以前書いたように(「環境順応型知性、周囲からの「期待」に圧し潰れる韓国の自殺者たち」)、統計上は日本の自殺率を大きく越える韓国は酷く病んでいるといわざるをえず、勿論、自殺者の知性というのも上記のひきこもりに観られる想念の悪循環とひじょうに近いところにあります。しかし、あるいはそれ以上に病んでいるのが、上記引用文の筆者が指弾しているマスメディアの人間ないし組織全体における身体的共感の繊弱さです。そしてこれは、普通にいえばモラルの問題でしょうが、それ以前の被害者や関係者にたいするそもそもの共感が著しく欠けると云う意味で、マイケル・ファーガソン監督が執拗に追いかけた米国のウォール街に跋扈する「新上流」階級の人間たちにも通底する問題でもあります。

つまり、今日の情報化時代の負の自画像として掲げられるのは、文明以前の野蛮さと怠惰に淫する無気力なひと、極右政党や原理主義にいれこみ過激な暴力行為に走るひと、自殺者やひきこもりに見受けられる猥雑な想念の孤独な悪循環から脱けだせないひと、そして、最短最速最大の利益を貪るためには手段を選ばないひとの4つです。それぞれが部分的には重なりあい反発しあうようにみえるでしょうが、彼らに共通するのは構造的な知的怠惰さと、[p2p type=”post_tag” value=”mammals”]哺乳類[/p2p]が1億数千年間も発展させてきた社会的知性の礎にあたる身体的共感の崩壊です。そして、現代を生きる若い世代のほとんどがこれらの理念型に程度の差こそあれはまりこんでいます。まずはこの事実を直視し、確実に打ち克っていくことが必要でしょう。

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Chika Hitujiya

I'm Futurist, producing "Whole Earth Museum" and co-producing art project Run! Miumushi-Kun & Garapadish. This common purpose is really simple. Making you enjoy and preserving the enough requisite knowledge & things for human to survive the crisis of period.

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